<概 要> 予讃線の高松都市圏は、四国内では唯一の快速列車常設区間となっている。 この区間は昔から伝統的に、料金不要で途中駅を通過する快速列車が設定され、当方手持ち資料では大正年間から既にその存在が確認できる。 本項では、その歴史等について趣味的観点で軽く触れてみたい。 なお、臨時列車は除外して定期列車のみを扱うこととし、以下に記載の内容はあくまでも個人研究の範囲であるとお断りしておく。 |
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<歴 史> 〜黎明期〜 <戦前> 当方手持ち時刻表等で確認可能な範囲では、遅くとも1925年3月11日の時刻改正時点で、讃予線・高松桟橋〜伊予大井(現・大西)間の普通列車が、高松〜多度津間で途中坂出・丸亀のみ停車の快速運転を行っているのが確認できる。 同列車は多度津以遠の区間は各駅停車となっており、現在の所謂区間快速列車という設定となっている。 当時まだ、現在の松山駅は開業しておらず、松山駅よりも高松都市圏快速列車の方が歴史が古いということになる。 もちろん当時は全てSL牽引の客車列車だった。 牽引機関車については、四国に8620形が初めて導入されたのは1931年であることから、1925年当時の牽引機関車は高松または多度津配置の6760形ではないかと思われる。 客車は、当時まだ鋼製客車が出現するより前であるので、二段屋根の17m級木造客車(ナハ22000系)ではないだろうか。 なお、四国に初めて準急列車が登場したのは、讃予線(予讃線)が松山まで全通した1927年であり、そもそも旧国鉄線で初の「準急」を名乗る列車が登場するのは1926年9月の東海道本線であり、当該の列車は準急列車ではなく普通列車(快速列車)と判断して差し支えないであろう。
ちなみに、戦前の準急列車は特別料金不要の列車で、その意味では現在の快速列車に相当すると言える。 準急料金を徴収するようになったのは戦後である。 <戦中> 太平洋戦争ただ中に発行された、(財)東亜旅行社発行の汽車時間表1943年7月号。 途中駅が省略されているので正確な停車駅等が不明であるが、ほとんどの列車が高松〜多度津間を約1時間かけて走っている中、40分台前半で走る明らかに速い列車が複数本確認でき、これらの列車が途中駅いくつかを通過していたと推察される。 上記1925年時点の時刻表でも、同区間は各駅停車で1時間以上、快速で1時間を切る程度であり、矛盾は無さそうに思える。
但しこれらの列車の内、下りの19列車は多度津以遠の区間も他の列車よりも明らかに速いことから、これは準急ではないかと思われる。上りの14列車も同様である。 もっとも、戦前の準急は料金不要列車だったので、その意味では快速的な列車ではあるが。 対して下り107列車と413列車は多度津以遠も他の列車と同等の速さなので、これは所謂”区間快速”ではないだろうか。 なお、下り413列車は丸亀と多度津の到着時刻が入れ替わっている誤植の可能性がある。 <戦後> 戦後すぐの1947年6月時点。 当方手持ちの当時の時刻表では途中駅が一部省略されており詳細な通過駅が不明であるが、松山発高松桟橋行の上り第8列車が多度津→高松間49分と、1時間以上かかっている他の列車よりも若干速く、また当時の車両性能では同区間を各駅停車でこの所要時間で走るのはかなり難しいことから、同区間快速運転となっている可能性が高い。
〜気動車快速列車の登場〜 四国に初めて愛称付の準急列車が設定された1950年10月1日改正時点では、高松桟橋〜琴平間に気動車使用の快速列車が1往復設定されており、同区間を客車準急「南風」を上回る速さで結んでいた。 車両は高松配置のキハ41000(後のキハ06形)あるいは42000(同07形)であろうか? いずれも機械式の気動車で、配置数も少ないことから通常は単行運転ではなかったかと思われる。
「国鉄史」を漁ると、国鉄が発足した1949年に高松・高知・徳島の各都市圏に”快速気動車”を増発したとの記述が見られる。 しかし1950年当時の時刻表では、高知・徳島圏の列車は各駅停車で、実際に”一部駅を通過する快速列車”だったのは高松〜琴平間の列車のみだった。もしかすると在来のSL牽引客車列車よりも”快速”という意味合いなのかもしれない。 あるいは、当初は一部小駅を通過していたのが、1950年10月改正では高松地区以外のものは全て各駅停車になったのかもしれないが、コレについては設定当初の1949年の時刻表を確認しなければならない(未確認)。
少し下って、交通公社時刻表1958年11月号を見ると、当時この区間の下りについては7本の快速が設定され、内4本が気動車となっている。 また帰宅時間帯を中心に、途中鬼無・国分・鴨川のどれかに停まる列車も設定されているのが判る。
その後も気動車または客車による快速が数往復設定されていたが、四国内輸送近代化がひととおり終わった1961年4月15日改正後は、客車列車の気動車化によるスピードアップが行われたという判断からか、データイムの快速が消滅してしまった(未明と朝夕通勤時間帯のみ)。
しかし、やはり料金不要で乗れる快速の需要は一定数あった模様で、同年10月1日のダイヤ改正で早くも昼間時間帯の快速が復活。 その後は、改正の度に若干の増減を繰り返していた。 画像の引用は差し控えるが、四鉄OB会のWebサイトのアルバムの中に、「快速」のヘッドマークを掲げたキハ20+キハ10系の気動車快速列車が香西駅を通過する画像が掲載されている。 当該画像は昭和30年代の撮影とされ、香西駅の前後がいずれも単線であることから、1965年9月15日よりも前と思われるが、その時点で既に自動信号化済みでかつ一線スルー対応であるという点に驚かされる。 以下に、この期間の主な改正における快速の本数を表に示す。 なお、1968年10月改正以前は、時刻表においては「快速」の明示が無かったが、普通列車の中で高松〜坂出間の途中停車駅が2駅以内のものまたは宇多津を通過するものを快速列車とという判断でカウントした。
この期間中、交通公社時刻表においては、1968年10月号から「快速」マークが付いて明示化された。 国鉄四国総局発行の時刻表も、ほぼ同じ頃から同様に移行したと思われる。 蛇足であるが、「快速」を明示するようになる前後では快速列車的性格を持つ列車の停車駅に変化があり、明示前は宇多津・鴨川・国分・端岡を通過して鬼無・香西に停車する列車なども存在したが、明示後はそのような変則的な停車駅の列車は消滅した。 国鉄時代も末期になると、利用者減に伴う列車本数削減の消極ダイヤが繰り返され、快速も漸次減少したいった。 なお、高松〜坂出間の完全複線化完成は、1970年3月27日であるが、快速の運転本数には影響していない。 ↓交通公社時刻表 1978年10月2日改正号より
〜快速の革命的大増発 60−3改正〜 この区間の快速に革命が起きたのは、国鉄末期の1985年3月14日改正であった。 上記の通り、国鉄末期はは利用者減に伴う消極的な減量ダイヤ改正ばかりであったのが、特に四国においてはこの改正を機に民営化を睨んで利用者増加を狙った積極ダイヤに転換し、日中毎時1〜2本の快速列車が設定された。ポケット時刻表でも”快速大増発”をアピールしていた。
表の通り、改正前に比べて本数にして4倍以上の大増発であった。
特に、まだ全ての快速が端岡を通過していた1985年3月14日改正当時は、キハ40系や58・65系はもちろん、キユ・キユニ等の荷物気動車や古いキハ20・55系、さらにはDE10形牽引の50系客車列車など、全列車が高松〜坂出間21.6kmをノンストップ・平均時速60キロ以上で突っ走っており、今にして思えば国鉄形車両が最後の輝きを放って奮闘していた時代であった。 〜快速の消滅〜 −快速暗黒時代− しかし、1987年3月23日改正で、高松〜坂出間(と多度津〜観音寺・琴平間)の電車運転が始まると、新たに増発および置き換えられた電車列車は基本的に全て各駅停車のみとなり、駅を通過する列車は設定されなかった。 上記の表を見ても、同改正時点での快速の本数は1985年3月改正時点の2/3に減っていた。 特に高松〜観音寺・琴平間電化完成の1987年10月2日改正では、ついにこの区間の快速列車が約40年ぶりに姿を消してしまった。 自分はこの頃を”高松都市圏快速暗黒時代”と呼んでいる。
ご覧の通り、データイムはもちろん朝夕および夜間帯においても「快速」の文字が消滅してしまった。 〜快速新時代 <「マリンライナー」の登場>〜 幸い(?)”暗黒時代”は約半年で終了。瀬戸大橋の開業に伴う1988年4月10日改正では岡山〜高松間快速「マリンライナー」が登場して、高松都市圏の快速列車が復活した。 当初は毎時1本の19往復で運転を開始した「マリンライナー」は、快速列車としては珍しくグリーン車と普通車指定席車を連結。 登場時の快速「マリンライナー」は9両編成が基本で、長編成のステンレス製車体の快速電車が予讃線の複線区間を疾走する姿は、新時代の幕開けを告げるのに充分すぎるほどのインパクトがあった。 高松都市圏のみならず岡山都市圏の快速サービス、そして新幹線接続列車として、さらには備讃都市圏を結ぶ都市間快速列車としても機能して、旅客に好評をもって迎えられた「マリンライナー」は、JR側の予想を大きく上回る多くの利用客を集め、1989年3月11日の時刻修正で25往復、1989年7月23日改正で29往復、1990年3月10日改正では30往復、さらに1991年3月16日改正では33往復に成長し、朝から夜までほぼ30分ヘッドの充実したダイヤとなった。 ※快速「マリンライナー」の詳細な歴史等については、別項も併せて参照されたし → 快速「マリンライナー」」 しかしこの時点では、高松〜多度津間の快速は消滅したままであった。 〜<「快速電車」の時代 <「リレー快速」の登場>〜 高松〜多度津間の快速列車が復活したのは、1989年7月23日改正であった。 瀬戸大橋開業に伴い、「しおかぜ」「南風」が岡山発着に変更となったことにより、高松発着の特急列車が減少したため、「しおかぜ」「南風」に接続する快速列車として、快速「しおかぜリレー」「南風リレー」が設定された。 当初の途中停車駅は、端岡・坂出・宇多津・丸亀で、讃岐塩屋は通過であった。 なお、当初は試行的意味合いがあったのか、列車番号は本来季節列車が名乗る7000番台が付与された。
この特急リレー号は、現在の快速「サンポート」の前身に当たる列車で、その後も接続する特急列車の増減および時刻変更に合わせて運転本数等の変遷をみた。 なお、1994年12月3日改正から通常の列車番号が付与されている。 主な改正におけるリレー快速、および「マリンライナー」の本数を以下に記す。 両列車を合わせた本数が、実際の高松〜坂出間における「快速列車」の運転本数となる。 なお、リレー快速と「マリンライナー」では高松〜坂出間における上り/下りの実際の向きが逆になる点に留意。
リレー快速の充当車種については特に限定運用はなかったが、所定では全てJR四国所属の121系・7000系・113系(2000年から)が充当され、111系・6000系、および気動車での運用は無かった。 ヘッドマークについては、運転開始当初は「快速 リレー」表示で、1998年3月14日改正で「しおかぜリレー」が消滅した後は「南風リレー」表示に変更されている。 「マリンライナー」は全てJR西日本所属の211・213系電車となっていた。 〜都市近郊快速の定着 <「サンポート」の登場>〜 高松港頭「サンポート」地区の開発に伴う、高松駅の移転新築工事がひとまず完了した2002年3月23日改正では、予讃線高松近郊区間輸送改善の目玉として、快速「サンポート」が登場。 上記の「南風リレー号」を全て統合した上で、毎時2往復(予讃線・土讃線各1往復)の快速列車が設定された。 当初の「サンポート」の設定本数は下り20本/上り22本の合わせて42本に達し、これは上記の1985年3月14日改正時の快速の本数を上回っている。 ここに、「マリンライナー」「サンポート」という、高松都市圏快速サービスの二本柱体制が確立した。 これ以降は、高松〜坂出間は日中上下合わせて約100本の快速列車が運行され、特に100万都市圏を除いた地方都市部としては全国でも有数の快速列車頻発区間となっている。 特に2005年3月1日改正から2008年3月15日改正までは、高松〜坂出間では「マリンライナー」「サンポート」合わせて日中約15分ヘッドの運転となり、大都市圏と比べても遜色のない快速ネットワークダイヤが構築された。 ※快速「サンポート」ならびにその前身となるリレー快速の詳細については、快速「サンポート」 の項も併せて参照されたし。 以下に、主な改正における快速「サンポート」および「マリンライナー」の運転本数を記す。
Covid-19禍もほぼ収まって客足も戻りつつあり、高松都市圏の快速列車としてすっかり定着した「マリンライナー」「サンポート」の今後のますますの活躍を期待したい。 |