住所 | 高知県香美市土佐山田町繁藤 |
開業日 | 1930年6月21日 |
電略 | シケ |
標高 | 347m |
乗降客数 |
(1989年)134人 (1999年)62人 |
形態 | 併用2面3線 |
主な設備 |
JR四国でもっとも標高の高い駅。 ここから土佐山田までは14km弱であるが、高低差が300mもあるため、途中のほぼ全区間が25‰の連続勾配となっている。 開業当初は「天坪駅」という名称だったが、1963年10月1日に現駅名に変更された。 1960年代前半の国鉄四国支社(当時)の動力近代化政策に基づく列車大増発の中で、大豊町内だけを走行する通称”大豊列車”が設定され、土佐岩原(一部は大歩危)と当駅の間を往復する気動車による普通列車が多数設定されていたことがある。 今は静かな山間の駅であるが、かつてはここで悲惨な出来事があった。 1972年7月5日、折からの集中豪雨によって繁藤駅前の追廻山が小崩壊。地元の消防団員らが出動して復旧に当たっていたその時に、高さ約150m、幅約80mに渡る大規模な崩壊が発生した。 約10万立方mの土砂が、作業にあたっていた地元消防団員や地元の人たちはもちろん、12棟の民家と繁藤駅の一部、さらには駅に停車中だった列車(高松行224列車=DF50牽引・客車4両編成)までも一気に飲み込み、DF50形ディーゼル機関車1両と客車2両が駅の横を流れる穴内川に転落。駅も半分以上が土砂に埋まって、合わせて60人が死亡した。 土砂の威力は凄まじく、重量84トンもあるDF50が川を飛び越えて約60m先まで吹き飛ばされたそうである(下記リンク先の時事ドットコムの画像に、川の対岸まで飛ばされて台車が外れた状態で上下がひっくり返っているDF50が写っている)。 これが「繁藤災害」で、地元原告団と国との間で天災か人災かで19年に渡って裁判で争われ、1991年9月になってようやく最高裁で和解が成立した。 並行する国道32号線と土讃線に挟まれる位置に慰霊碑があり、列車の車窓からも見ることが出来る。 なお、この繁藤災害により、国鉄(当時)土讃線は復旧までに23日を要した。 読売新聞高知版特集記事(別ウィンドゥで開きます:リンク切れ) 消防防災博物館記事(別ウィンドゥで開きます:リンク切れ) 高知県警HP 警務部(別ウィンドゥで開きます:リンク切れ) 高知新聞PLUS「繁藤災害50年 大崩落の痕跡今も 川底に鉄道レール」(別ウィンドゥで開きます) 朝日新聞「大惨事の記憶、今も鮮明 「繁藤災害」から50年 国鉄OB振り返る」(別ウィンドゥで開きます:ひっくり返ったDF50-45画像あり) 土木情報サービス いさぼうネット コラム54 昭和47年(1972)の高知県繁藤災害(別ウィンドゥで開きます) 時事ドットコム写真特集(別ウィンドゥで開きます) 日本ロボット学会サイト内・高知工科大学教授のレポート(PDFファイル:別ウィンドゥで開きます) ※リンクは予告無く切れます 駅前にはバス停があり、香美市営バスが土佐山田まで1日上下9便、苓北観光自動車が南国市の医大病院まで1日3往復のバスを運行している(2023年8月現在)。 ※香美市営バス ※領北観光自動車 |
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